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峠 最後のサムライ Comments (8)
松たか子のナレーションではじまります。
どうしても細かい描写を端折らなければならない作品の常套手段。
各々の登場人物の設定などは全て観る側の想像の構築に任せる他ありません。
ちょっと投げやりな?設定を原作ファンは受け入れなければ…
それでもやはり役所広司。この手の弁の立つ侍演じさせたら飛び抜けてます。誰もこの時代の本当の事知らないわけですけど本物を感じさせます。
妻役として松たか子を持って来たのも彼の演技を受け止め切れると思っての起用なんでしょうね。
芳根京子との掛け合いではどうしても芳根京子の拙さを感じてしまいました。(まだ幼い設定なのでしょうから仕方がない?)
悪くない作品だとは思います。数少ない時代劇大作ですし。
ただ司馬遼太郎先生の大作を1本の映画に纏めるのは大変だよなぁ…っと改めて。
せめて前後半の2部に(無理なんだろうけど)
『燃えよ剣』みたいに語り部を設定して端折るのはいい手だと思ったんだけど。
時代劇には厳しい時代です。
1977年の大河ドラマ「花神」の原作の1つとして採用はされたが、あくまで1部であり、本作の映画化により初めてその全貌が映像化された。
映画化された本作は、幕末に生きた河井継之助の話で、戊辰戦争前後の長岡藩の話である。
そもそも長岡という地名も新潟県民でないとピンとこないのかもしれない。
しかし、司馬遼太郎が「侍とは何か」を考えるべく白羽の矢を立てたのが河井継之助であり、「峠」により越後長岡藩の家老・河井継之助を世の中に知らしめることとなったのだ。
それは「藩」や「武士」などという仕組みから解放を模索し続け、時代の先を読んでいた人物だからだ。
「侍は民のために存在する」と、戦いのない世を願ったにもかかわらず、時代の転換期による動乱に巻き込まれていく悲劇は「最後のサムライ」の姿を見た思いだ。
幕末の風雲児・河井継之助を演じた役所広司と、その妻を演じた松たか子は、文字通り夫婦そのもので、その凛とした夫婦関係が心に染みた。
この2人以外のキャストも豪華で、「もっと出て欲しい!」と名残惜しく思うほど贅沢な使い方であるが、主役(役所広司)を中心に描くべき作品のため、この思いっきりも潔い。
本作は、徳川幕府の終焉と、あまり知られていない幕末の風雲児と越後長岡藩を改めて学ぶ大事な機会であり、歴史を大局的に把握し、人情的に見ると、より作品の良さが伝わる。
原作は司馬遼太郎の小説『峠』(未読)、監督・脚本は小泉堯史。
2019年に完成していたけれども、コロナ禍で幾度かの公開延期。ようやくの公開となります。
幕末の動乱期の越後長岡。
家老・河井継之助(役所広司)は幕府側、朝廷側のどちらにも属することなく、中立の立場を目指していた。
どうであれ、戦は回避、民の平安を守り抜くことがあるべき姿であるとの信念であった。
しかし、朝廷を担ぎ出した薩長軍との交渉は決裂に終わり、戦は回避できなくなってしまう・・・
という物語。
登場人物は多々いるが、あらすじを書くと、これだけである。
映画の焦点は主人公・河井継之助にあてられ、妻・おすが(松たか子)のモノローグで映画がすすんで行きます。
幕末を舞台にした映画というと、勝者・敗者の別にかかわらず、英雄的な人物の豪快な活躍が描かれることが多いが、この映画では、そこいらあたりはあまりない。
妻のモノローグで語られる物語の前半は、継之助・すがの夫婦の物語。
お座敷での夫婦揃ってのカンカン踊りや、自宅座敷で並んで聴くオルゴオルの音色など、寄り添い同じ方向をみる夫婦の像が印象深い。
振り返ってみれば、監督・脚本の小泉堯史の映画は『雨あがる』『阿弥陀堂だより』『博士の愛した数式』と、いずれも夫婦の映画であった。
本作も、その延長線上にある。
後半は、意に反して戦となった長岡の物語。
多勢に無勢といってもよいぐらいの戦力差がある戦であり、負け戦は決定的である。
唯一、米国仕込みのガトリング砲を使って反撃する描写ぐらいしか、長岡側の勇猛果敢な描写はない。
映画的に、この後半が、観ていてしんどい。
戦相手の薩長側の兵をほとんど写さないのは演出上の工夫かもしれないが、煙幕越しの戦闘だったり、と同じような絵面が続く負け戦なので、ほんとしんどく、もっと短くてもよかったのではないかしらん、とも思った次第。
(ま、戦のシーンを削ると、あまりに地味すぎる幕末映画になって、商売にならないかもしれないのだが)
ということで、個人的には前半は感心したけれども、後半はあまり気乗りがしませんでした。
タイトルも『峠 最後のサムライ』というよりも、『峠 継之助とその妻すが』の方が相応しいかな。
主人公の背景などあまり描かれていないのだけれど、役所広司の存在感だけで納得させるような演技でした。
なぜ新潟県なのかというと、実は新潟県は明治初期の段階では「全国の都道府県で人口が最多の県」であり、日本のメインでもあったのです。
本作は、徳川家によって統治された260年余りにも及んだ江戸時代が終わりを告げる「大政奉還」から始まります。
この最後の将軍・徳川慶喜による「大政奉還」のシーンは、もはや映画の現場ではほぼ見かけない「フィルムカメラ」で、2,3台という体制で7分間を超えるような長回しをしています。
本作のメガホンをとったのは黒澤明監督に師事し、黒澤明の遺作シナリオ「雨あがる」でデビューを果たし、日本アカデミー賞で最優秀作品賞をはじめ総なめにした小泉堯史監督です。
本作は「黒沢組スタッフが集結した集大成のような作品」となっているのです!
そして本作の主役は、越後の長岡藩(現在の新潟県長岡市)の家老である河井継之助(つぎのすけ)です。
「大政奉還」により❝平安の時代❞が訪れるはずが、新政府を樹立する薩摩・長州を中心に「徳川慶喜の首が必要だ」となり、国が「東軍(旧幕府側)」と「西軍(新政府を樹立した明治天皇側)」に二分し、「戊辰戦争」という日本最大の内戦に至ります。
この最後の動乱を経て、サムライはいなくなりますが、まさに「サムライとは何だったのか」を象徴する人物が、司馬遼太郎の長編時代小説「峠」で描かれた河井継之助なのです!
「忠義は重んじるものの、無用な争いが起こらないように死をも恐れず誠心誠意を尽くす」姿は、今の世の中に響くものがあります。
そして、この国の行く末を考える際に、福沢諭吉が説く「教育」の重要性が出てくるなどキチンと本質を洞察していた人物であることが分かります。
主演の役所広司の渾身の演技は言うまでもなく、妻役の松たか子はナレーションも上手く、時代劇が無くなりつつある今、見るべき本格的な時代劇となっています。
豪華実力派俳優陣で固めたので、「話している内容の説得力」と「キャラの存在感」がすごい。
これだけで2時間もたせてると言って過言ではない。
難しかっただろうに、よく映画化したなぁ、と。
原作は文庫で分厚い上中下巻。
江戸に留学して勉学に励み藩の要職を目指す上巻、長岡藩へ洋式の新しい銃器を導入して家老になり薩長西軍にも幕軍東軍にも味方しない(スイスのような)中立独立国を作り上げるために京へ江戸へと奔走の中巻をすっとばし、中巻の後半~下巻部分=大政奉還以降を映像化したので、個人的には物足りなさもありました。
前提が十分に描かれていないため、なぜ藩の人々にあんなに慕われ信用されているのかが、役所さんだからの説得力で押し通されてしまっていました。
結果、信念に殉じた不器用な男の生き様を見るだけになったような気がしてもったいなかったです。