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処女の泉 Comments (9)
牧師の家に生まれ、神と対峙してきた20世紀最後の巨匠ベルイマンの代表作の1つ。沈黙する神に対しての贖罪という形而上学的なテーマのもと、極めて冷静に描かれる中世北欧の生活。敬虔なキリスト教徒である豪農一家に降りかかる過酷な運命。物語は、身重の娘が土着の神オーディン(キリスト教徒からすると異教であり邪教)に祈るシーンから始まる。彼女はこの家の使用人インゲリ、やがてお腹の子は私生児であることが分かってくると、キリスト教=純潔VS異教=不実いう構図が見えてくる。インゲリはこの家の一人娘カーリンに嫉妬し、彼女に災いが降りかかるよう、オーディンに祈っていたのだ。結局そのためか、カーリンは教会へ寄進に行く途中、山羊飼いの兄弟にレイプされたうえ撲殺され、あげくに身ぐるみはがされる。このスキャンダラスな内容は当時物議を醸したようだが、ベルイマンが描いたのは、犯罪行為そのものではなくて、これに付随した人々の罪と罰だ。本作に登場する人物はそれぞれ罪を犯し、(神を通じて)人の手によって罰せられる者と、罪を告解し許される(?)者がある。罰せられるのは当然娘を犯して殺した山羊飼いの兄弟。彼らは神の導きによってか、犯罪の後、一夜の宿を殺した娘の家に求めることになる。欲に目のくらんだ兄弟は、娘の着物をそうとは知らず、その母に売りつけようとし、自らの罪を知らしめてしまう。よってその父に復讐のため殺されるのである。この兄弟が罰を受けるのはある意味当然だが、犯行に一切関わらなかった幼い末の弟も、父の怒りのままに殺されてしまうのだ。兄たちの恐ろしい犯行に怯え、兄弟の中でただ1人罪を意識していたはずなのに・・・。この末弟の殺害が父の罪となる。父は大きな過ちに愕然となり、何故神がこの罪に対して沈黙しているのか疑問に思う。しかし彼は神に対する疑問すらも自分の罪と思い、娘の死んだ場所に教会を立てることを誓う。嫉妬のままに異教の神に祈ったインゲリと、愛娘を溺愛しすぎた母も、それぞれの罪を告白し、神の許しを請う。
さて、これらが罰を受ける者と許しを得る者たちであるのだが、もう1人罰を受ける者がいたことを忘れてはならない。何をかくそう被害者カーリンその人だ。本作を観る前の知識では、タイトルどおり、カーリンは清らかな乙女なのだと思っていた。しかしカーリンは母の溺愛のもと、わがままに育ち、怠け者で自分の美貌をひけらかしている。日曜日でもないのに、晴れ着を着て美しさを誇示する彼女に罪はなかったのか?インゲリが呪うほどの驕りは罪ではなかったのか?彼女が山羊飼いに襲われたのは、無垢なせいではなく、単なる世間知らずのせいだ。彼女がインゲリほど世間を知っていたら、1人で森に入り、知らない男に声をかけることはなかったのだ。ではカーリンに災いをもたらしたのはオーディンではなく、彼女たちが信じる神だとしたら・・・?もしそうなら、娘を殺した犯人に復讐すること自体神に背くことになってしまう・・・。
しかし乙女の死骸のあった場所から泉が湧き出るラストシーンで、神の存在に疑問を持った者や、異教の神を信じていた者などが、聖水に触れて救われることを考えると、ベルイマンの真意が解らなくなった。そう思って資料を調べると、このラストシーンは制作サイド側からの要求で付け加えられたものだとあった。キリスト教徒からの批判を恐れた結果かも知れない。そうなるとやはり私が考えたとおり、ベルイマンの描きたかったものは、宗教による救済ではなく、沈黙する神への怒り=宗教に対する疑問や警鐘だったのではないか。この他の「神の沈黙」シリーズをまだ観ていないので、一概に結論は出せないが、本作を観ての個人的な感想は、罪に対する罰は、神によるものではなく、自分の心にあるということ。自分自身を許せるか、許せないかということなのではないだろうか・・・(自分自身を許せないと死ぬまで苦しまなければならないが、自分を簡単に許してしまっても、後々苦しむ羽目になる。結局罪を犯した者に救済はない・・・)?
暗闇の中で火をおこすと、炎が上がる瞬間に登場人物の容貌が浮かび上がる。その表情には幸福と呼べるような柔らかさはなく、険しい目つきが火に照らされてぎらつく。
次にこの人物が移動した先には天井に開いた窓から降りてくる陽の光が注いでいる。ここにきてこの人物が女性であることが明らかとなり、つやを失った長い黒髪で貧しい身なりであることも分かってくる。
そして、カメラの奥に移動したこの人物は、やはり天井から降り注ぐ光りによって、初めてその全身を照らされるのだ。観客はここで彼女が妊娠していることを知ることとなる。
映画が始まってここに至るまで、被写体距離を3点に移動させ、それぞれに光の当たり方を変えることのみで、この人物の紹介を終える。セリフはと言えば、オーディンの神に祈る言葉くらいなもので、これは彼女がキリスト教のものではない神を信仰しているという内面についての言及である。
続く朝食のシークエンスののち、ようやく登場するこの一家の一人娘に当てられた光は、冒頭で紹介された使用人とは対照的に、その表情に一片の隈もなく照明が当たっている。
この光の使い方だけで、この二人の境遇と心性の違いを浮き彫りにしている。そして、映画はこの境遇と心性のことなる者たちによって物語が進む。嫉妬と欲望そして怒りによって映画の運動を生み、罪の意識や後悔によって立ち止まる。
娘の復讐を遂げた父親は、娘の死んだ姿を目にしたことで、自分の行為の罪深さと神の存在について深刻に悩む。この父親だけではなく、すべての登場人物が人物の行いの罪深さについて、重大な結果がもたらされてから気付くのである。
映画はこうした人々の心の中の闇に文字通り光を当てる。
『処女の泉』も例に漏れませんでした。この映画でテーマになっているのは「思わず罪に手を染めること」だと思いました。
冒頭、インゲリという獣のような召使はカーレンが憎いとオーディンの神に訴えます。娘の復讐の際、父親は無実の子どもも含めて3人の命を奪います。一人娘のカーレンは生前可愛がられていました。しかし特に父親になついているので、母親がそれを日頃妬んでいたことを告白するのは娘の亡骸を探しに行く時でした。カーレンの死は全員にそれぞれの罪を自覚させるのです。
一つ議論を進める形で、もう一つのテーマを提示するのはラストシーンの父親ですね。私はこの手で復讐を果たした。小さい子どもも殺した。神がいたとすれば、どうして私がそんなことをしえたか。神よ、あなたは本当にそこにいるのですか?私たちをちゃんと見守ってくれてます?黙ってないで答えてください、お願いですから。。。明らかに『第七の封印』におけるテーマは今作と共通しています。
中盤で乱暴されてしまう役でしたが、娘さんがかわいかったですね。難しい意味は分かりませんが泉のイメージにぴったりでした。
と、批評めいた文章になってしまった。
個人的に気になったところ
・父が枝を切るシーン
空に木が揺れて、地面に倒れる
・二人目の男殺害シーン
スクリーンが炎に焼かれる向こう側で二人の男がもがいている
絵力はんぱない!ブルーレイ買おうかしら。
自分がひねくれた人間なのは自覚してるけど、日常生活で私情に駆られそうになる瞬間、この北欧の映画で死んだカーリンと湧きでた泉のことを思い出したいと思う。これだからベルイマン好き。
最近レンタルも難しくなっているらしく、もしかしたらもう観る機会はないかもしれない…ということで行ってきたベルイマン3大傑作選。2013年デジタルリマスター版にてどどんとリバイバル上映である。
『処女の泉』は、その昔まだコーコーセーだったころ、衛星放送かなんかで観たことがあった。件のレ○プシーンに、古い映画ってここまでやるんじゃ…とおののいた記憶があった。
そうして今回ウン十年ぶりかに観直したわけだが、このムスメさんがどういう末路をたどるか知ってるせいなのかそうじゃないのか、画面から伝わってくる緊迫感が半端ない。父親役のマックス・フォン・シドーの重厚すぎる存在感ゆえだろうか。かっこよすぎる。
時代背景も中世あたりなのに、現代に通ずるテーマでもあるからなのか、目の前で展開されるストーリーやセリフ運びなどにも古臭さを少しも感じさせず、とても60年近く前に作られた映画とは思えない。これが名画と言われる所以なんだろうか。
さて問題のシーンは…記憶の中よりも意外なまでにあっさりといっちゃいけないがさっくり終わってしまった感が。あれ?こんなだったか。もうちょっとエグかったような…だけど、そのえ?と思うような一瞬さが、少女にいきなり降りかかった災厄っぷりを一層際立たせ、さらには殴り殺されてしまい、なにもそこまでしなくても…といった絶望感に観客を一気に取り込む。そして後半、娘に起こった悲劇を知った父親の怒涛のような復讐劇へとなだれこんでいく。
しかし、純真無垢、可憐、罪なき乙女に起こった悲劇といろんな解説に書いてあるが、このムスメ、実は単にアタマがあまりよくなかっただけでは…あんな山奥で蝶よ花よと育てられればいたしかたないのか。よく言えば世間知らずということか。さらに若干だがイラっとさせるような言動が多く、よく言えば天真爛漫、悪く言えば空気読めや。召使いが呪いたくなるのもなんとなくわからんでもなかった。
上映中ラスト、娘の遺体を発見した父親が神への慟哭を吐露する超クライマックスシーンにもかかわらず、いきなりぷつっと画面が真っ白けに。「SDカードが差し込まれてませ〜ん」というメッセージが。。5分くらいして再開したけどねえ〜。感動が…帰りオジサンがスタッフに文句言っていたけど。やっぱり、映画は多少ブツブツっと画面や音がとぎれてもカタカタフィルムのほうが味があっていい。